ホッブズ リヴァイアサン (有斐閣新書) 第1章 「序論」
1. 「思想的形成」
1-1 読書と思索
トマス・ホッブズ(1588-1679)は、17世紀のイギリスが生んだもっとも独創的な思想家のひとりであり『リヴァイアサン』(1651)はいうまでもなくその主著である。
ところで、このようなホッブズはあまり読書をしなかったといわれている。たしかに、ホッブズの友人でもあった有名な伝記作家ジョン・オーブリーは、彼の書斎のなかには半ダース以上の書物をみることはなく、ホッブズ自身「もし他の人びとと同じほどの書物を読んだならば彼らと同じような無知になっていたであろう」と語るのが常であったと伝えている。
しかし後にも触れるように、ホッブズが読書をしなかったというのは正しくない。ホッブズがほとんど生涯にわたって仕えたデヴォンシャー家の図書館には、今日なおホッブズ自身のいくつかの蔵書も、そして自筆の蔵書目録も残されている。おそらく、この逸話の意味するところは、ホッブズが過去の偉大な権威に盲信することなく、読書よりもより多くの時間を思索に費やしたということ、そしてそこからあの独創的な思想が生みだされていったということであろう。
同じくジョン・オーブリーの伝えるところによると、ホッブズは午前中は散歩をしながらその思索をメモにとり、午後それを整理するという方法をとったことになっている。これらのことは、あまりにも多くの書物と情報の洪水のなかにいるわれわれにとって、ある種の反省の契機を与えてくれるかもしれない。
われわれは本書において、『リヴァイアサン』の内容の解説に入る前に、まずこのようなホッブズの思想形成の過程をたどり、彼の問題意識とそれにもとづく哲学体系を明らかにしようと思う。
1-2 恐怖と双生児
〈前略〉
時あたかもスペインの無敵艦隊、来襲の噂が高まり、それに怯えた彼の母が恐怖のあまり早産した。ホッブズ自身、のちにその自伝のなかで、母は恐怖におののき「わたくしと恐怖を双生児として生みおとした」と語っている。あまりにも有名なこの逸話もまた、われわれが後にみるホッブズの人間観と、そしてホッブズの性格について何事かを伝えているともることができるかもしれない。
性格的にみてホッブズは、暗闇や、泥棒や、敵による迫害や死を恐れるところがあり、のちに1640年、〔イギリスに〕内乱が勃発するや、いちはやくパリに逃れ、みずから「第一号の亡命者」と称するほどであった。しかし彼の政治理論が自然状態における暴力による死の恐怖を逃れるために、「この世にこれと並ぶ力なき」強大なリヴァイアサンを呼び求めていったように、彼はまた内面的にかかる恐怖を克服していくだけの精神の強靭さをもそなえていた。
たしかに彼の知的活動は大胆であり、その自負と伝統の破壊には容赦のないところがあった。
〈略〉
恐怖と強靭さ、われわれはここに何かホッブズの思想を貫くパラドックスをみることができるかもしれない。
〈後略〉
1-3 歴史への関心
〈前略〉
なおもスコラ哲学が支配的であった当時のオックスフォードは、ホッブズにとって学問的には必ずしも馴染みうるものではなかった。修辞学には少なからざる興味を感じたが、論理学や自然学は必ずしも興味の対象とならず、むしろ天文学や地理学に時を過ごした。伝統的な学問への違和感は、すでにこの頃に始まっていたとみることができよう。のちのホッブズにとってスコラ哲学は無意味な言葉の連続であったが、それと密接な結びつきをもっていたアリストテレスの形而上学は誤謬のかたまり、倫理学は無知、政治学は政府の破壊者に他ならなかった。
〈略〉
1608年、卒業の後、デヴォンシャー家の家庭教師兼秘書となる
ほとんど一生にわたるデヴォンシャー家との結びつきは、のちにホッブズの思想的発展にとってきわめて重要な意味をもっている。ひとつにはこの代表的貴族たるデヴォンシャー家を通じて、ホッブズは当時の代表的知識人や貴族、たとえばフランシス・ベーコン、〈略〉などと知り合い、ときに保護を受けるようになったのである。
さらにまたホッブズはデヴォンシャー家の図書館に、オックスフォードで失った「大学」を発見し、忘れかけていたギリシア語やラテン語に磨きをかけるかたわら、ホメロス、ウェルギリウス、ホラティウス、ソフォクレス、プラウトゥス、エウリピデス、アリストファネス、トゥキュディデスらの古典古代の文学書や歴史書に読みふけった。そしてその中でもとくに興味をひいたものはトゥキュディデスであった。「これらすべてのうちでトゥキュディデスのように満足させてくれるものはなかった。彼はいう、デモクラシーは愚劣であり、一人の君主は共和制より優れている、と」。ここにすでにのちのホッブズの政治的立場が密かに顔を覗かせているともいえよう。 このころホッブズに書かれたものとして『随筆集』という手稿が残っている。
この手稿は傲慢ごうまん、野心、虚飾、悪口、我意という精神的態度や、主人と召使いの関係などを論じたものであるが、明らかにのちにみるように、伝統的な貴族道徳から近代的な市民道徳への過渡的な転換を示している。そして最後の「歴史」についての論文においては、哲学的な推論ではなく、歴史こそ、われわれに事実についての正しい知識を教え、どのような状況においてどのように振る舞うべきかを教えることができるというのである。さきのトゥキュディデスへの関心がこのことと無縁でないことは言うまでもない。 そしてそれが、公刊されたホッブズの最初の著作たる1629年におけるトゥキュディデス『ペロポネス戦史』の英訳に結実していくのである。
この翻訳の序文において、ホッブズは歴史を学ぶ目的を次のように述べている。
「というのは、歴史のもつ重要なそして固有の任務は、過去の行動についての知識によって、人びとが、現在においては思慮をもって、また将来にたいしては先見の明をもって振舞うことを教え、かつそれを可能ならしめることにあるのであるが、この著者のこの書物以上にこれを十分になしうるものは何も存在しないからである」と。
このようにして、思弁的なスコラ哲学に背を向けたホッブズは、まずさしあたっては古典古代の人文書や歴史書のなかに指針を見出し、そこから行動の規範を探り出そうとしていたといえよう。
1-4 幾何学の発見
このようなホッブズの思想に一つの決定的な転機となったのが、1629年の第二回の大陸旅行である。
〈略〉
ここでいわゆる「幾何学の発見」がおこなわれ、その魅力の虜になるのである。これもまた有名な逸話の一つであるが、このときの模様をさきのオーブリーは次のように伝えている。
「ある貴族の図書館に入っていくと、…… そこにユークリッドの幾何学原理が開かれたままになっていた。それは第一巻の定理47であった。『絶対に、こんなことはありえない』と彼は叫んだ。そこで彼はその証明を読み、さらにその命題へまで遡りそれをも読んだ。そして彼はさらに次の命題へと次々に遡り読み進んでいった。そしてついに、それが真理であるということを証明によって納得せしめられたのである。このようにして彼は幾何学との恋に陥ったのである」。
ここでホッブズが虜になった幾何学の魅力とは、まず定義を決め、ついで公準をと公理を定め、そこから整然たる論理によって結論を引き出していく、その推論の確実さであったといえる。
紀元前3世紀に書かれたユーリッド『原論』の中でピタゴラスの定理に該当するものは、第1巻の47番目の命題である。(なお、ピタゴラスの定理の逆は、その次、すなわち48番目の命題。)ここでは、昔から経験則として知られていたこの法則に、幾何学的な証明を与えている。これは、現存する証明としては、最古のものである。ただし、『原論』中にこの定理とピタゴラスやピタゴラス派との関係を示唆するものは、何もない。
定義、公準、公理
『原論』ではいくつかの定義からはじまり、5つの公準(要請)と、5つ(又は9つ)の公理(共通概念)が提示されている。議論の前提となる点や線、直線、面、角、円、中心などの概念が定義され、次のような5つの公準を真であるとして受け入れることにより、作図の問題の基礎を明確にしている。
公準:
1. 任意の一点から他の一点に対して直線を引くこと
2. 有限の直線を連続的にまっすぐ延長すること
3. 任意の中心と半径で円を描くこと
4. すべての直角は互いに等しいこと
5. 直線が2直線と交わるとき、同じ側の内角の和が2直角より小さい場合、その2直線が限りなく延長されたとき、内角の和が2直角より小さい側で交わる。
これらのうち5番目の公準については古代より、他の公理、公準に比して突出して複雑であることから、自明とするには疑問とされていたが、この疑問が、近代に至ってこの公準が成立しないとする幾何学である非ユークリッド幾何学の発端となる。
さらに公準の後に次のような公理が示される。これはあらゆる学問に共通の真理として受け入れられるものであり、研究において常に参照すべきものとされている。
公理:
1. 同じものに等しいものは、互いに等しい
2. 同じものに同じものを加えた場合、その合計は等しい
3. 同じものから同じものを引いた場合、残りは等しい
3. [不等なものに同じものを加えた場合、その合計は不等である]
4. [同じものの2倍は、互いに等しい]
5. [同じものの半分は、互いに等しい]
6. 互いに重なり合うものは、互いに等しい
7. 全体は、部分より大きい
9. [2線分は面積を囲まない]
ただし[]で囲まれた公理は公理に含めないことがある。第5公理は第2公理から導かれる。また第9公理を現代的に言い換えると「異なる2点を通る直線はただ1本だけ存在する」となる。第9公理は幾何学に関するものなので、本来は公準に含められるものと考えられる。
そしてこのような幾何学的推論こそ、のちのホッブズ哲学のひとつの基礎となっていく。『リヴァイアサン』におけるホッブズ自身の表現をそのまま用いるならば、幾何学こそ「神がこれまでに人類に与え給うた唯一の学問」であった。ここにまずもって、思弁的なスコラ哲学が背を向け、歴史と経験に眼を向け得たホッブズの関心は、幾何学的な推論に移行したということができよう。
一時期〔おそらく1620年~1625年〕、ホッブズはベーコンの秘書として仕え、
〈略〉
だがのちのホッブズは、このイギリス経験論の創始者に対して必ずしも高い評価をよせていない。むしろベーコンは哲学者であるよりも自然誌家にすぎないとすら言っている。
幾何学をモデルとし演繹的推論を旨とするホッブズ哲学の立場からするならば、ベーコンの帰納法はたんなる自然的事実の記述にすぎないように映じたかもしれない。しかし形而上学的思弁を排し、経験の世界に眼を向けながら、それを平明な言葉によって表現していこうとしたベーコン、そして身分や家柄よりも能力を重視しながら、「知は力なり」と宣言したベーコンとの接触が、さきの歴史への関心とおなじく、ホッブズにおけるスコラ的伝統の克服におけるひとつの重要な契機をなしていることを無視してはならないであろう。
1-5 「第一原理についての小論」
幾何学の発見に関連し、さらにいまひとつ重要なことは、このような方法の転換が、人間観そのもののよりいっそうの現実主義化ないし近代化を推し進めていった、ということである。
さきに触れたように、『随筆集』やトゥキュディデスの翻訳の頃のホッブズは、徳を極端なるものの中庸、と考え、謙遜、節制、勇気をよしとする貴族主義的道徳の痕跡を残していた〔そしてこの点でも、その道徳観においては意外に、伝統的であったベーコンに共通するといえよう〕。
しかし自明の確実な原理からの推論による、人間の性向の理解は、やがて自然的人間の肯定となり、善悪を欲求と嫌悪によって測る、功利主義的人間像への転換をもたらしていく。ここで幾何学や、次に述べる自然科学への接近が、必然的に功利主義的人間観をもたらすものであるか否かは、問わないことにしよう。ただホッブズにそのような過程がみられることは疑い得ない。
この点からみて、特に重要なのは、有名なホッブズ研究者でもあるフェルディナント・テンニースによって発見され、『第一原理についての小論』と名付けられた手稿である。テンニースはそれを、ホッブズ自身ののちの書簡に依拠しながら、1630年頃のものと推定した。 明らかに『小論』は幾何学的推論の具体的な適用であり、三部よりなる全体はすべて「原理」と「帰結」よりなっている。そして後のすべての部分はそれ以前の「原理」と「帰結」を前提としながら、まったくの演繹理論によって引き出されているのである。しかもその内容たるや、自然のすべての現象を説明するための運動についての第一原理〔第一部〕、ある物体の運動の他の隔たった物体への伝達の仕方〔第二部〕、これらの諸原理を用いての感覚その他の人間の能力の説明〔第三部〕よりなっている。そしてその最後の部分においては、人間の感覚その他の運動を動物精気によって説明しつつ、善悪をもっぱら感覚を通じて伝えられた外なる物体の運動に対する欲求と嫌悪として捉えていくのである。
すでに『小論』も、内容的にみて近代自然科学の影響を少なからず伝えている。しかし1630年代にいたるや、以上のような幾何学に加え、ガリレオを中心とする近代自然科学者への接近と、その成果の吸収が積極的に行われていく。ホッブズにとってガリレオは、「普遍的な自然哲学への門戸を開いた最初の人」であった。
1633年、ガリレオ『天文対話』を探し求めたときの模様を「それはイタリアにおいて、その宗教と自然理性との対話に関し、ルターやカルヴァンの書物のすべてがこれまでなしてきたよりも、人びとの宗教を傷つけずにおかない書物として受け取られていると聞き及んでおります」といっている ホッブズが直接、ガリレオに会う機会をもったのは、1634年の第三回目の大陸旅行においてであった。
〈略〉
このときの模様を伝えるものは残されていない。しかしホッブズは、すでにその道すがら、馬上においても車中においても、そして船上においても、常に念頭を離れなかったのは哲学のことであるといいながら、その哲学は「運動」の概念を中心とするものであると言っている。
1635年、彼は非公式のパリ科学アカデミー(Academia Parisiensis)を設立した。このアカデミーには、数学者だけでなく天文学者や哲学者も含め、約140人の通信員がおり、 1666年にジャン=バティスト・コルベールによって設立された科学アカデミーの前身となった。
ピーター・L・バーンスタインは、著書『Against the Gods: The Remarkable Story of Risk』の中で、「メルセンヌの死後約20年後に設立されたパリ科学アカデミーとロンドン王立協会は、メルセンヌの活動の直接の後継者である」と書いている。
ガッサンディの哲学史上最大の功績は、ローマ共和国にギリシア哲学が輸入されて以来エピクロスが被っていた誹謗を斥け、その唯物論を復権したことである。ガッサンディはなにより物理学者であり、経験論者であったのでエピクロスの原子論を好む下地が備わっていた。その好みは言語学界で長らく賞賛されていたルクレティウスを研究することで強まった。ガッサンディはエピクロスの「快楽主義」にまつわる偏見を取り除き、エピクロスの道徳的な純潔さを擁護した。さらに唯物論と「無神論」が同一ではないことを、エピクロスが神々に犠牲を捧げた事実や、神が第一原因であり世界すべてを創造したというガッサンディ自身の説によって論証しようとした。 デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)など、(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されるとした。この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネサンス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要である。
おそらくこれらの人びととの接触を通じて、ホッブズはますます自らの哲学的方向についての確信を深め、その構想を練り上げていったとみることができよう。
1-7 哲学の構想
1-7-1
1637年に帰国したときには、すでにその哲学の基本的な構想は出来上がっていたものと思われる。それはすでに明らかなごとく、物体とその「運動」の概念を中心とするものであり、それによって物体のさまざまの運動に始まり、人間精神の運動からさらに政府の活動までも同一の原理によって説明され得る、とするものであった。ここのいわゆる、物体 body 、人間 man 、市民 citizen をそれぞれの対象とする『物体論』『人間論』『市民論』という三部作の構想もまとまっていたのである。 1-7-2
ところで、ホッブズ自身、最初から三部作のこのような順序での完成とその出版を企図していた。それは、近代自然科学の原理と方法、および幾何学的な推論に自らの哲学を依拠せしめようというホッブズの意図からの当然の帰結ともいえよう。
しかし、この三部作の最終的な完成と出版は、間もなく始まった内乱によって大幅に引き伸ばされ、しかも最初に出版されたのは、最後であるべき『市民論』(1642)であった。
1640年代のイギリス内戦
ホッブズ自身『市民論』がまずもって最初に公にされざるえなかった事情について次のように述べている。
「わたくしがこれらの問題を静かにかつゆっくり考えながら、秩序だって構成しようとしている間に、我が国は荒れ狂い、支配の権利、臣民の服従という問題が沸騰し、それがまさに来たるべき内乱の前兆をなしていた。そしてそれが〔すべての他の問題をさしおいてまで〕、この第三の部分をまず完成せしめる原因となったのである」。
後にもみるように、ホッブズの政治理論の目的は、内乱の中から平和のための処方を示すことにあった。しかもホッブズはそれを、抽象的な理念の問題としてではなく、人間性についての極めて冷静な科学的分析を前提としながら、そのうえで平和のための人びとの義務と政府のあり方を示すという形で行ったのである。そしてその限りにおいて、『市民論』が自然科学を基礎におくホッブズ哲学の基本的方向に沿うものであることは言うまでもないであろう。
1-7-3
1750年にいたって、「人間性」および「政治体について」という二つの部分に分けて出版されたいわゆる『法学原理』は、すでに『市民論』に先立って1640年に手稿の形で多くの人びとの手に渡っていたのである。 『法学原理』の第一部は、内容的には明らかにさきの人間論の部分に相当し、『市民論』はこの『法学原理』の第二部に第一部の一部分を加えて敷衍ふえんしたものである。 さらにまた『物体論』が最終的に完成され、出版されたのは1655年であるとしても、今日、残存している二、三の草稿は、すでに『物体論』のかなりの部分が1640年前後に成立していたことを示すのである。
〈以下、略〉
1-8 ホッブズの著作
https://gyazo.com/a07a8b6100a8a1b3bfe2936dc2044148
さきにあげた『市民論』(1642) および『物体論』(1655) に、1658年に出版された『人間論』 が、ホッブズのいわゆる三部作を構成する。これらが自然論、人間論、政治論というホッブズ哲学の三つの部分に対応していることは言うまでもないであろう。 『法学原理』は、すでに述べたように内容的には、この人間論と政治論を含むものであり、ホッブズの主著中の主著である『リヴァイアサン』は1651年に出版され、この『法学原理』をさらに敷衍したものである。 その他のホッブズの主な著作には、1640年から1660年のイギリス内乱を描き出した『ビヒモス』(1668)、慣習法の効力を批判した『イングランドにおける哲学者と慣習法の学徒との対話』(1661) —— 両書ともホッブズの死後に出版された —— 、およびブラムホールとの自由意志をめぐる論争を扱ったいくつかの著作が含まれている。 1-9 『リヴァイアサン』について
第1部 「人間について」
そのうち、「人間について」という表題をもつ第1部は、認識や情念という人間の自然的諸能力を論じ、そこからさらにいわゆる「万人に対する万人の戦争」として有名な自然状態が描き出され、自然法の問題にまで論が進められている。
第2部 「コモンウェルスについて」
「コモンウェルスについて」という表題をもつ第2部は、かかる自然状態からの契約による国家の生成、その諸形態から、さらには主権者と臣民の権利と義務、国家の解体の原因などが論じられている。
第3部 「キリスト教的コモンウェルスについて」
「キリスト教のコモンウェルスについて」という第3部においては、預言による神の王国における平和のための諸条件が論じられ、
第4部 「暗黒の王国について」
「暗黒の王国について」という第4部においては、それまでに論じてきた諸原理とは異なり、それと対立する諸教義への論難が行われているのである。
『リヴァイアサン』という題名について
「リヴァイアサン」は旧約聖書 ヨブ記 第40章・第41章に現れてくる海の怪獣。「地の上にはこれと並ぶものなき」力をそなえた秩序の象徴
陸の怪獣であり無秩序の象徴としての「ビヒモス」に対比されている
『リヴァイアサン』初版本の口絵はまさにこのような「リヴァイアサン」の擬人化した姿を象徴的に描き出しており、両手に剣と牧杖ぼくじょう〔司教杖〕を持ち、聖俗両世界に君臨する王の地位と権能を表している。 そして確かに『市民論』と同じくパリに亡命中のホッブズによって書かれた『リヴァイアサン』は、内乱に対しての平和と秩序の条件を示すものであり、政治的帰結においては主権の絶対化を擁護している。そして『リヴァイアサン』は、時に国王チャールズ二世に献ずるために書かれたとされ、時には本国への安全なる帰還の途を開くためにクロムウェルの政府を正当化すべく書かれたともされた。しかし『リヴァイアサン』を特定の政治目的や、特定の政党的党派の立場と結びつけて解釈することは正しくない。
それは仮に、その政治的帰結において絶対主権を擁護するものであるとしても〔それですらかなり限定されねばならないのであるが〕、それを支えた基本的な思考と人間観は、まったく近代的なそれであり、人びとの思考と価値観を伝統的なそれから近代的なそれへと完全に転換するものであった。そしてそれゆえにこそ、われわれが後にも見るように、それは王党派にとっても議会派にとっても、受け入れられるところとならず、無神論の汚名を着せられ、迫害の対象にすらなっていったのである。
だがこのことを明らかにするためにも、われわれはここで、ホッブズ哲学の基本的な方法とそれに基づくその体系を明らかにし、そのなかで『リヴァイアサン』がどのような位置を占めるかをおさえておくべきであろう。
2. 「哲学の体系」
2-1 哲学の科学化
2-1-1
すでに述べたように、『物体論』はホッブズの哲学体系の第一部に相当し、ホッブズの自然論をあらわすものであった。しかし「論理」および「哲学の第一根拠」という表題をもつ『物体論』の第一部と第二部は、文字通り、ホッブズ哲学全体にとっての論理学と第一哲学とをあらわしている。 目次
第1部 「計算すなわち論理学」
第2部 「第一哲学」
第3部 「運動と大きさの比率について」
第4部 「自然学、もしくは自然の諸現象」
そしてその『物体論』第一部の冒頭において、ホッブズは哲学を定義してつぎのように言っている。 「哲学とは、われわれがまずもっているその原因または発生についての知識から、正しい推論によって得られる、結果または現象についての知識であり、さらにまた、まずその結果〔もしくは現象〕を知っていることから得られる原因または発生についての知識である」
2-1-2
このようにして、いわば一言でいって、哲学とは「因果関係についての知識」である。つまりそれは、
すでに、原因もしくは発生が知られている場合には、結果ないし現象を、
逆に、結果もしくは現象が知られている場合には、原因ないし発生を、
推論していく人間の知的営為である。
そしてこの場合における推論とは、計算にほかならず、したがってホッブズは「理性」によって意味するのも、かかる計算能力以外のものではない。
推論 = 計算
理性 = 計算能力
ここでは「理性」が、信仰から峻別されていることはもちろん、さらにそれはプラトンやアリストテレスのごとく善のイデアや最高善の観念を認識する能力を意味するものではまったくない。
それは与えられた素材を組み合わせ、加減乗除しながら、因果関係を明らかにする形式的な計算能力である。
理性は、因果関係を明らかにする形式的な計算能力
計算 = 与えられた素材〔 原因もしくは発生、または結果もしくは現象〕を組み合わせ、加減乗除すること
われわれは後に、ホッブズのこのような科学的な理性概念が、市民社会における計算能力としての理性概念と、どのように内的に関連しているかを見るであろう。
2-1-3
ところで、このようにして哲学が「因果関係についての知識」であるとしたならば、哲学の目的もまたこれによって自ずから決定されていると言えよう。いわば哲学の目的は、因果関係についての知識を正しく利用し、望ましい結果を生みだしながら、それを人間の便益に供せしめるということにある。
因果関係についての知識の増大は、人間の予測能力の拡大を意味し、人間がコントロールし得る領域の拡大を意味する。この意味において、ホッブズにとっての哲学の目的は、「力のための科学」という近代科学の目的に一致しているといえる。
2-1-4
だが、それではこの場合、道徳哲学・政治哲学の目的はどのように考えられるのであろうか。
ホッブズによれば、道徳哲学・政治哲学の目的は、人間にとってのすべての不幸の源である戦争の原因を明らかにし、平和のための条件を示すことにある。
つまり国家の素材である人間の分析を通じて、戦争や不和の原因を明らかにし、それによってこの世において平和を守り安定した生活を保つためには、人びとはいかなる義務を守らなければならないか、そしてまたその場合における主権者の権利はいかなるものでなければならないかを示すことにある。
国民の義務
主権者の権利
因果関係についての知識としてのその哲学の概念と相即的な関係にあるこのような政治哲学の目的が、イギリスの内乱によって触発されたホッブズ政治哲学の実践的目的に完全に一致するものであることは言うまでもないだろう。
相即的な関係
二つの異なった性質の事象が、その差異を残しつつ一体化していること。不一不異ふいつふい、不二、不離であることなどの意。相即そうそくともいう。『般若心経』の冒頭にある「色即是空、空即是色」(正蔵八・八四八下)の「即」はこの意味であり、「色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり」と読む 『物体論』の献辞においてホッブズは、真の政治哲学は彼の『市民論』以上に遡るものではないと言う。政治哲学の創始者としての掛かるホッブズの自負が、平和のための諸条件が初めて科学的基礎のうえに示されたということに基づいていることもここから明らかであろう。だが、われわれが後に見るように、このような政治哲学の目的の限定が、人間そのものと人間の究極目的そのものについての理解の根本的な展開を伴うものであることに注意しなければならない。
2-2 分析・総合の方法
ところでこの場合、ホッブズは、ガリレオやパドゥア学派の人びとに従いながら、掛かる哲学の方法に二つのものを区別する。すなわち、「分析的方法」と「総合的方法」がそれである。 このうち分析的方法とは、全体をその諸部分に分解しながら、掛かる部分の様々の性質を生みだしている原因を明らかにしていく方法であり、これに対して総合的方法とは、このようにして得られた諸部分を再び、全体に再構築し、これによって全体の運動を明らかにしてく方法である。
もちろん、このような分析・総合の方法は、個別科学の領域や個別的事象の因果関係の解明にも用いられる。しかし同時に、ホッブズは、全体としての哲学そのものが分析的方法によって得られた第一原因から演繹によって組み立てられ得ると考えている。
そしてその第一原因を「運動」として捉えながら、そこからまず物体の単純運動よりなる幾何学、物体相互の運動にかかわる力学、物体の内部の運動に関わる物理学〔それには人間の生理的諸現象についての説明も含まれている〕、それらの運動によって引き起こされる人間の諸性質を対象とする心理学ないし道徳哲学、そしてそのような人間理解から平和のための諸条件を示す政治哲学が連続的に引き出され得ると考えていたのである。
もっとも最後の政治哲学の部分に関しては、ホッブズはこのような演繹体系とは別に、すべての人が経験的に知りうる人間性についての事実から進み得ることも認めている。しかしその人間性についての理解と、したがってまた政治哲学の内容がそれ以前に展開されている自然哲学によって決定的な影響を受けていることは、すでに述べたところからだけでも明らかであろう。
政治哲学は、〔このような演繹体系とは別に、〕すべての人が経験的に知りうる人間性の事実から進み得る
2-3 自然の機械論化
1
すでに触れたように、「哲学の第一根拠」という表題が付されている『物体論』第二部においては、まず先のようなプロセスを通じて導出された「運動」の概念が明らかにされ、その運動がどのようにして起こり伝達されるのかが示され、それを通じて自然の現象を説明するための根本原理が明らかにされるのである。
すなわち、そこにおいてホッブズはまず時間と空間を精神の側にあるものとしながら、唯一の実在を物体として捉え、その物体の運動によってすべての現象が生起すると考えるわけであるが、この場合の運動を定義して次のように言う。
「運動とは、ひとつの場所の連続的放棄と、別の場所の連続的取得である」。
このようにしていわばホッブズにとって運動とは場所の移動である。そこでここで問題なのは、それではこのような運動の原因はどこにあるのかということであろう。
2
ホッブズによれば、運動の唯一の原因は隣接せる他の物体の運動にのみ求められる。このようにしてアリストテレス以来の物体の運動の原因が、物体それ自体にあることが否定されていくのである。 アリストテレスによれば、自然のすべての存在はそれ自身のうちに目的を含み、その目的の実現過程にあるのであり、かかる過程の表現こそ運動にほかならない。
しかしここでホッブズは、アリストテレス的な自然に内在する目的〔アリストテレス的な表現を使うならば、いわゆる「目的因」〕の観念を完全に否定し、運動の唯一の原因を隣接せる他の物体の運動に求めているのである。そしてこの場合、運動を伝達する側の物体における運動の原因たる偶有性〔属性〕を「起動因」と呼び、運動を伝達される側の物体におけるそれを「質料因」と呼びながら、起動因と質料因が揃った場合には、常にその瞬間に運動は伝達されるものとし、この意味においてすべての変化は必然的・因果的に起こるものとしたのである。
そしてそれゆえにこそ、このような因果の連鎖の正しい理解は、望ましい結果をもたらすための「力」の獲得を可能にするものとしたのである。のみならずホッブズはこれに加えて、「運動するいかなるものも、もしそれがなんらかの他の隣接し運動する物体によって妨げられないならば、常に同一の方向に、同一の速度をもって運動を続けていくであろう」、という、ほとんど慣性の法則に相当するものを運動の基本原理として掲げている。この意味においては運動こそ物体の本来的な姿であるといえる。
2-4 目的論的自然観の解体
1
かつてデンマークの哲学者フリチオフ・ブラントはその著『ホッブズの機械論的自然観』(1928) において、
Frithiof Brandt "Thomas Hobbes' mechanical conception of nature" (1928)
ホッブズはかかる機械論的自然観の成立において、デカルトを初めとする当時の他のいかなる哲学者よりも先んじていたことを明らかにしていった。しかしここでわれわれとって重要なことは、このような機械論的自然観の成立が、伝統的な自然観の位階構造そのものを破壊していったということであろう。すなわちアリストテレス・スコラ的自然観〔それはしばしば目的論的自然観と呼ばれる〕においては、自然のすべての存在はそれ自身のうちに目的を含み、その実現過程にあったがゆえに、すべてはそれが内に含む目的の優劣によって秩序づけられ、ひとつの階層的秩序のなかにあるものとされていたのである。そしてそこではかかる階層秩序における下位のものは、上位のものに屈し、その目的の実現に仕えることによってのみ、自らの目的を果たし、全体としての秩序が調和のもとにあるとされていたのである。
このような自然観が、人間社会にまで延長されたとき、それが封建社会の身分的秩序を擁護し正当化するものとして機能せざるを得なかったことは言うまでもないであろう。そしてそれゆえにこそかかる目的論ないし階層的自然観の破壊と、それに代わる機械論的自然観の成立は、たんなる自然解釈の相違にとどまらない重要な意味を含んでいたのである。自然そのものが異なった個体の量的・機械論的結合に過ぎないとしたならば、自然そのもののなかには上下関係や支配服従の関係を正当化するものは何も残らないことになり、すべてのそれは人工的に創り出されたものとされざるを得ないのである。
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そしてこの点においてホッブズの機械論はもっとも徹底しており、
2-5 幾何学と政治哲学